森のようちえんは、里山や川以外によく畑に出かけます。プレ開園(2019年)当初から畑を借りて、野菜を育てています。畑に興味があるのも、私の前職がオーガニックな八百屋だったことも大きく、それぞれが「自分の食べる分くらいは、自分で育てる」ことができれば、今社会で起きている食問題はだいぶ解決するんじゃないかと思っています。

子どもたちの生活の一部に畑のじかんがあること。これは、食べ物を育てる場所が、暮らしの一部であるということです。その当たり前が、子どもの暮らしの一部だとしたら、子どもたちの「食べる」への意識はどう育つのでしょう。
食育が様々なところで行われていますが、いちプログラムだったり、イベント的な催しものだったりで、それは非日常的な立ち位置な気がします。本来、食は生き物にとってなくてはならないもので、昔は狩猟や栽培等を行い、自分のものは自分で、でした。しかし、それが難しい現在では、それを授業やイベントで伝えることで食育としている気がします。もちろんそれが悪いわけではないのですが、私たちは畑のじかんを当たり前に保証することで、結果それが、食育につながってゆくんだと考えています。

種を撒き、野菜を育てて、収穫し、調理する。もちろんその野菜の種も自家採取して翌年にまた撒くために保存します。その繰り返しがあるからこそ「食べる」ことは「いのちをいただく」ことだと体験的に知ってゆくんだと思います。
その為にも、私たちは昔ながら継がれてきた固定種・在来種・伝統種(以下、固定種等)という野菜の種を撒いています(知識はそこまでありませんので悪しからず)。現在、スーパーに並ぶ野菜の99.9%はF1種と呼ばれる種からできています。育つスピードも個性(甘いとか〇〇病気に強いとか)、形も同じだからこそ農家の人は沢山作れて、スーパーに一年中同じ野菜が並ぶんですね。

しかし、子どもも同じ様に、同じ成長スピードでは育ちません。同じ個性なんて絶対にありませんし、顔も好きなことも違います。だからこそ、面白いし、それぞれの個性が交わった時に驚く様な成長や体験があるんだと思います。
固定種等の野菜も同じです。バラバラにマイペースに育ち、酸っぱいにもあれば甘いのもあって、形も小さいの大きいのがあって...でも、不思議と種は土壌を記憶して、自家採取され続けることでその土地にあった種になってゆく(その品種なりの美味しさへ)と云われています。
「いのち」には個性があって、その個性は素晴らしいものです。誰かから見れば、「あの野菜は形が悪くて小さい」と言われても、他の人から見れば「酸味と甘味のバランスが素晴らしい!」となるかもしれません。それが個性です。
F1にはそれがありません。すべて同じですから。そして、現在の子どもの学びの場で行われている教育も同じです。成長曲線から外れたら、栄養不足(又は過多)と指導が入り、学校の平均点より低ければ、居残りや宿題等。その指針はあっても、それは指針であって、一つの見方です。子どもの個性は、その指針だけでは計れません。
子どもを見る目も、野菜を見る目も同じ。その子がどう育ってゆきたいと感じているかを知ろうとすること。その子の個性本質を感じようとするかどうかです。私たちの仕事は、その個性本質を知り、どの様な関わりや環境を与えるかだと思います。

この話尽きないので、ここまで(笑)
プランターでも、お庭でも、畑でも野菜を育てること。それはF1でも固定種でも結局のスタートはなんでも良いと思います。まずは、種を撒くこと。そこから始めませんか?

固定種マニア園長トト
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