子どもってどんな存在?
子どもをどんな目で見てる?
そう自分に問いかけます
「子どもは、子ども自身を育てる力を持っている」
自分の体に必要な動きがわかりやすいかもしれません
生まれたての子どもがお母さんのおっぱいを吸おうとする力
声を掛けてくれるお父さんの顔を見たくて、その方向へ首を動かそうとする力
大好きな人の下(もと)までずり這いしようとする力
幼児でも木登りしたり、斜面を登ってゆく姿をいつも見掛けます
それは彼らがその動きが今の自分の体に必要と知っているから、その動き(遊び)をするのです。
心も同様に、
友だち同士でぶつかる子達がいるとします
それは磁石の様に、彼らがお互いを育て合っている場
心と心を交わし合い、自らを育てています
ダメな事ではないのに、大人は良くないと決めつけ止めに入ってしまいます
しかし、それは大事な育ちの場だったりします
だって、それはお互いにそれぞれの心を育てるのに、その場や相手(その子)が必要だと知っていて、ぶつかっているのだから(もちろん反対に穏やかな時間:おままごと等も)。
その子どもに、何かを教えたり、止めさせたり、従わせたりする必要があるのかな
でも、「危ないこと」「こんなことを学ばせたい」等大人にも事情や気持ちがある
そんな時にこそ「子どもは、子ども自身を育てる力を持っている」という目線で見た時
「危ないこと」
大人が本当にその先に危ないこと(大きな心の傷になる、骨折や重症になる)等の予想ができることは、伝えなきゃいけないし一度止めたいです
だって、そんな体験は望んでいないし、そもそもそれは安全とは言えない。安心安全があるからこそ、子どもは内なる力(自らを育てる力)を解放できる
そして、子どもは、子ども自身を育てる力を持っているとしても、その場の危険予知や環境を把握する力はその発達段階でかなり違います
それを見極めて、その発達段階に合ったその子に必要な「場面」なのかどうかを大人は観察して、援助する必要があります
それは、危ないことを全部止めましょう!ではなく、その場面がその子にとって安心安全の上や発達段階で必要な体験なのかどうかを見極めて、見守ったり、止めたりするということです。
「こんなこと学ばせたい」
大人の気持ちや今その子に必要だろうという考察や提案、つっつく(ねぇ、やってみようよ!)は大事です
だって、保育者はその子にとって何が幸せか考えるのが仕事だと思うから。
それでも、“いま”その時その子にとって必要かどうかは「本人」が決めること
本人が「いや、今じゃないんだー」と言うなら今ではないです(笑)
そこは大人が「そっか、じゃあまた後で相談するね!」「こんなのもあるけど?」と一旦引き下がったり、提案したりすることが必要で、大人も一旦「本当に必要かな?」等観察(考え)し直す時間にもなると思います。
今を生きる子どもにとって、いま必要な体験は子どもが一番わかっています
だからこそ、森のようちえんで大事にしている
「何がやりたい?」「いま、どんな気持ち?」「(失敗して)次はどうしょっか」
と、自分の頭で考えて、心のままに、遊ぶことで自らを自分らしく育てることができます。
同じ様に私たち大人も、自らを育てる力がある(今は薄れているかもしれないけど笑)
自由に自分を解放し、子どもと同じ様に、自分を生きることができます
でないと今まさに、今を生きる子どもと共に毎日を過ごす(保育する)ことなんてできません
要は、子どものことを考え、大人もトライ&エラーをして、あーでもないこーでもないと
より良い保育の場を創っているということは、大人もまだまだ育つ伸びしろがあるということの証拠だと思います(笑)
これからも精進させて頂きます!
トト
Comments